馬場亨法律事務所


馬場亨法律事務所|コラム散歩道

コラム散歩道


目次

  1. 今日もまた戦場で若者が死んでいる
  2. 傘は天下の回り物
  3. 林子平は二度死ぬ
  4. 地図を持って道に迷う
  5. 駒の湯
  6. 季節の変わり目
  7. はじめての「すき家」
  8. 金蛇水(かなへびすい)神社
  9. 牡丹の花
  10. 和霊神社・えびす神社
  11. 狂王ルートウィヒ
  12. 海鞘(ほや)と竹の子
  13. 函館の七夕
  14. 幌泉、南部家・大和の七夕
  15. 春日神社と春日町
  16. 「理科」で歴史をよみなおす
  17. こしゃくなチビ犬
  18. 材木町通り
  19. 五月の欅並木
  20. 恐怖、「ペルシャの市場にて」
  21. 人はなんのために生きるか
  22. 五色沼の水の行方
  23. 大雪・・
  24. 吹雪の幌泉
  25. 肥満のパピヨン
  26. こけた昼下がり
  27. 玉こんにゃく

今日もまた戦場で若者が死んでいる
[2010.10.17 記]

2010年10月16日午後3時30分、「アンドレ・C・コロネッラ&大泉勉・・夢の共演」開演。会場は瑞宝殿への登り口のレストラン・パリンカである。チケットをとったというので、土曜日の午後、仕事を切り上げて出かけた。

 

コロネッラ(テノール)さんは1976年ナポリ生まれ。亡くなった遠藤和良さん(Eビーンズ館長だった)がオペラネッワークがまだ活発に活動していた頃に連れてきて、その後、何度か仙台に来ている。

ピアノは大泉勉先生。プログラムは、カンツオーネ・・「禁じられた歌」「カタリ・カタリ(つれない心)」「サンタ・ルチア」「帰れソレントへ」「オーソレ・ミオ」、オペラから・・「カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲」(ピアノ、大泉勉先生と三野宮まさみさんの連弾)、トスカより「妙なる調和」「星は光りぬ」、リゴレットより「女心の歌」、トウランドットより「誰も寝てはならぬ」、椿姫より「乾杯の歌」(三野宮まさみ<ソプラノ>さんも)であった。

レストランの中だから、聴衆は50人ほどで満杯。

コロネッラさんの陽気なトークで盛り上がった。最後は、みんなで「フニクリ・フニクラ」を合唱して終わりとなったが、これをうたう前に、コロネッラさんから一言触れられたことがある。

イタリアは世界の何カ所かに多国籍軍などの形で派兵しており、今も、イタリアの何人もの若者が死んでいっている。彼は、この歌を歌うときはいつも、その若者達に思いを致しながら歌うのだという。

さりげなく触れられた鎮魂の思い・・私の心に小さな波紋が影のようによぎった。


傘は天下の回り物
[2010.10.17 記]

出かける時に雨が降っていて、帰りに雨が晴れていれば、傘は「忘れ物」となるものである。

傘をどこに忘れてきたか捜すのは結構大変だ。なぜって、忘れてきたくらいだから、そもそも、何処に忘れたかなんて思いださない。昨日の自分の足取りを順を追って思い出してみる。途中、タクシーに乗った場合などは、そこで、おしまい。何タクシーに乗ったかなんておおかた覚えていないし・・。レシートを受け取っていれば別だが・・。

あるところでは、誰かが傘を忘れていって、誰だか判然としないまま何ヶ月も過ぎると、無主物として回収し、傘なしの客が帰りしなに雨が降っていると、これを貸し出していた。なかなか、面白い。

厳密に考えると、ちょっと、問題があるのだが、この際は細かいことは言わないことにする。

自分が必要な時に傍にある傘を使い、他人が必要な時は、その人がその傘を使う。これぞ、「傘は天下の回り物」だ。「能力に応じて働き、必要に応じてとる。」という思想にどこか通じるところがある・・。

今日もまた傘を忘れた自分を慰めている。


林子平は二度死ぬ
[2010.10.11 記]

林子平今日は絶対に林子平の墓に行き着くぞ。決意も新たに出かけた。前回は自転車を押すことに夢中になり、注意力が散漫になった。土橋通りに入る手前で自転車を乗り捨てた。帰りに無くなっていたら自己責任だ。

そして、今回は間違わず龍雲院に辿り着いた。

私は仙台市に提案したい。北四番町の土橋通りの入り口には「林子平の墓」という案内標識が立っている。しかし、墓はそこからかなり坂を登ったところにあり、しかも、地図では土橋通りが尽きて北八番町通りと交叉する場所は十字路になっているように記載されているが、実際は変形交差点で少し鍵型にそれているのだから、この箇所にさらに案内標識を設置すべきである。

仙台市は、林子平に対する礼が今ひとつという感じがする。

林子平は未だ日本が江戸の太平の眠りから覚めやらない時に、「海国兵談」「三国通覧図説」を顕し、世を惑わす不届き者として蟄居を命ぜられ失意の内に亡くなった(1793年)。

それから二百年余り・・、「三国通覧図説」には、尖閣諸島が中国と同じ色分けをして記載されているとのことだから、ここでも、林子平は無視される運命にある。林子平は二度死ぬか・・。

ともかく、工藤平助と言い、林子平と言い、仙台ゆかりの人が、世界の動きに敏感に反応したことは、我々に銘記されていいことだ。そして、隣国とどう平和な関係を作り上げるかは、我々がどう智恵を働かすかに掛かっている。冷静な協調の精神が求められているのだろう。


地図を持って道に迷う
[2010.10.4 記]

子平町の辺りは行ったことがない。全く不案内である。思い立って子平町へ行ってみることにした。もちろん、林子平の墓を見るためである。林子平・・六無斎と名のったとされる。「親はなし、妻なし子なし版木なし、金もなけれど、死にたくもなし。」

武士でも、空威張りせず、普通の人の普通の心情を吐露してしまうところが普通の武士と違うところだったのか。いや、普通の武士は、むしろ、こうだったのかも知れない。「武士道」って、結構、美化された武士像のところがある。

武士論はさておいて、子平町の辺りは全く地理に自信がないので、古い地図を持って出かけることにした。距離感から言って、とても一番町辺りから徒歩でゆくところではないと思われる。今日は自転車だ。自転車で北4番町通りを西進し、仙台厚生病院を越えてから、地図を確認。

そして、土橋通りへ入った。これをまっすぐ北上すれば、龍雲院、林子平の墓なはずだ。土橋通りは道幅が昔のままで狭く、しかも、途中から上り坂だ。行き交う自動車に触れそうな感じでとても危険だ。私は自転車を降りて押して昇ることにした。道成にどんどん上がって行くが、どこまで行っても、林子平の墓の案内板が見当たらない。

へんだなあ、そろそろ、寺らしいものが見えてもいいはずだがなあ・・と思いながら、さらに、自転車を押して上へ上へと進んだ。・・そして、やっと寺が見えた・・と、「寿徳寺」と書かれている。なんだ・・おかしいじゃないか・・と、再度地図を出して確認した。・・と、龍雲院から大きくずれた道路を歩いていることがわかった。どこで、違ってしまったのだろう。

引き返して、正しい道を捜そう。交通量は多く、その上、下りの道路は歩道と言える部分もないと同じ。なんでこんな道を来てしまったのだろうと後悔したが遅かった。

いったい、林子平の墓へ至るには、どこからどの道へ入ればいいのか、往路ではそれらしい道を見逃したのだからと気にしながら下ったが、ここかな・・と思う小道はあるものの・・どうも確信が持てず、さらに下った。そして、ついに北4番町通りまで降りてしまった。

地図を持ちながら、結局、目的地には着けなかった。夕日が西の方に傾きつつある。今日は諦めよう。またの日を期すことにした。無念である。


駒の湯
[2010.09.26 記]

駒の湯もう、何年間も銭湯というものを使ったことがない。そもそも、最近、近くに銭湯があるところに住んでいない。もう大昔になってしまったが、追廻住宅の中に銭湯があった。私がまだ学生で川内川前町に間借りしていた頃のことだ。

夏であれ冬であれ、まだ日が高い3時とか4時の内に入浴すると、客はほとんどいず、時には自分一人だけなんてこともあり、広い浴場を独り占めして気持ちのよかったものだ。

司法試験に受かって前期・後記の研修所の最中も松戸寮の浴場は使わずに、近くに銭湯を見つけて早い時間に入っていた。

銭湯のよさは、なんと言っても内風呂の浴槽の狭さから解放されて、伸び伸びと湯に浸ることができることだろう。もっとも、我々が子どもの頃は、ほとんどの家庭に内風呂なんてなかったから、風呂屋はいつも混んでいた。遅い時間だとお湯自体がきれいとは言えなかったか。日の高い時間に湯につかるなんてことが可能だったのは、学生や修習生というモラトリアム状態にあったからこそできたことではあるだろう。

さて、最近、ぶらぶらと肴町通りの一本北を走っている東西の道路を西に向けて歩いてみた。この道はいつもは全く用事のない横道で、事務所からさほど遠くの通りではないのにもかかわらず通ったことがない。こんな道路もあるのだ。

車も来ず、裏通りという感じだ。ふと、見ると、「駒の湯」の看板がかかっている。こんなところに銭湯がある。一番町通り、国分町通りから、ちょっと西にはずれたこの辺りは昔と比べれば、現に住んでいる人はずいぶん少なくなっているだろうに、だれが入りにくるのだろうか・・。コンクリートの建物だらけで外からは見落としてしまうが、街のなかに、しぶとく人の生活空間があるのだと気付いた・・。


季節の変わり目
[2010.09.18 記]

油断だった。季節の変わり目で予兆は既にあったのだ。うかつだったとしか言いようがない。

事務所に入ると締め切った部屋は湿度でむっとしていた。これは、暑い。好きではないのだが直ぐに冷房を入れた。急速冷房。机に向かって文書を読む。部屋は冷えてきて汗は急速にひいていった。一通り読み終えて警戒心もなく椅子を立った。すると、腰の筋肉が張ってキーっと痛みが走る。「しまった。」と思ったときは遅かった。今年、「秋のぎっくり腰」だ。

夏の連日の猛暑は続き空気から湿気が抜けているはずの時期に入っても暑さは変わらない。夜も毛布もなしに寝ている日が続いたが、ある朝起きて、腰にいやな違和感を感じた。夜の間に冷やしたらしい。寝ている間に秋になっていたのだ。

理由はわからないが、40歳代半ば辺りから、私は季節の変わり目がだめだ。暑いなら暑い、寒いなら寒いで、体が、それに合ってしまえばよいのだが、体が寒さから暑さに、暑さから寒さに体制を切り替えるときに変調を来す。腰に来るのだ。

   

私は、元来、速足である。ある時、歩いている自分の姿が街のショー・ウインドウに映っているの見た。速足が過ぎて前のめりになり、姿勢が悪いことを自覚した。いつも姿勢をよくして歩けと人に言われる原因がわかった。それで、ゆっくりと歩くことにしてみたことがある。その後、十字路で信号の変わるのを待っていたところ、二人の老人が歩道を渡っているのを見た。その速度のゆっくりなこと、しかし、いかにも年老いた感じそのものである。それから、私は、ゆっくり歩くのを止めた。

     

一仕事終わって、散歩に出た。青葉通りを大町交番方面へ向かったが腰を伸びやかに歩けない。必然、そろそろと歩く以外なく、・・・情けない。晩翠通りのプラタナスは長い暑さにやられて白っぽく乾いた葉がよじれている。そういえば、南町通りの向日葵は頸を折って紐で吊られていた。

     

今年の夏の後遺症だ。


はじめての「すき家」
[2010.09.12 記]

一番町。ヤマハの隣。「すき家」がある。

最近開店した店だ。一番町サンモール商店街にもファースト・フード店がある。マクドナルドだったか、随分前から出ている。しかし、私は入ったことがない。

根が臆病で保守的だから、新しい店に入るのは何か警戒心が働いて落ち着かない。

さて、今日の昼飯はどうしようかとぶらり一番町へ向かう。昨日、戸隠でざるそばを食ったし、すすきのでまたラーメンか・・、ちょっと飽きたかな・・という気分である。少し、目先の変わったところに入ってみようか。

雨のジャズ・フェス二日目で、ヤマハの前で、あるグループがチューニングをしている。音が出ていると、ついつい、釣られて行ってしまうほうなので、自然、足はそちらへ向いた。ヤマハの隣に「すき家」がある。

新しいところに入って見るか・・。勇気を出してと言えば大げさだが、思い切って自動ドアのボタンを押した。ファースト・フード店なんて「若者」の入るところという固定観念があるから、入った途端に、店員から客までが一斉に振り返って私に怪訝そうな眼差しを注いでよこすのではないかと身構えたが、誰も振り向かない。何事もない。

なにしろ、初めての「すき家」。そもそも、このような店での振る舞い方がわからない。座っていれば注文をとりにきてくれるのだろうかと一瞬考えたが、いや、こちらから注文にいかなければだめだろうと考え直した。カウンターで聞くと、案の定、はじめに注文して代金は払う。すると、お釣りをもらっている内に、「カレー・ライス」が出てきてしまった。思わず、「ずいぶん、はやいこと。」と口走った。

ポリのコップに水を汲もうと思ったが、ここでも、頓挫。水の出し方がわからず、うろうろしていると、居合わせた女性客が教えてくれた。その人は若い人ではなかった。よく、見ると、テーブルについている中には年配の人もけっこういる。

でも、偏見だろうか、やはり、座に似合っているとは言えないな・・。・・さて、食べ終わって、食器はセルフ・サービスで戻さなけりゃいけないのか、そのまま座を立っていいのか・・ひと思案。回りのひとがどうするか見ていると、壁に、セルフサービスでカウンターに返してくれと書いてあった。

私の、はじめての「すき家」経験でした。

 

金蛇水(かなへびすい)神社
[2010.08.29 記]

金蛇水神社祭金蛇水神社は一番町通りの三越の南に小さく祀られている。

金蛇水神社まで行ってにみることにした。日曜日、ずいぶんの人出である。パキスタンの洪水の救援募金活動が彼の国の人と思われる数人によっておこなわれていた。気が向いて少しばかりのカンパをし、人波を掻き分けて歩く。

小さな社に賽銭を納めてお参りをし、通りに売り場を出している巫女さんに聞いてみた。「この神社は岩沼にある金蛇水神社と関係あるんですか。」答えは、あちらが本殿で、こちらは分社だとのこと。確か、金蛇水神社は商売繁盛の神様なはずだ。祭りの行列の中に知った商店街の人を何人か見つけ会釈を交わしたばかり。

岩沼の金蛇水神社には牡丹庭園がある。

牡丹と芍薬は同属であるが、牡丹は灌木、芍薬は多年草だ。牡丹は中国では花王と言われているとのこと。そして、「牡丹灯籠」の話の原話は中国のものらしい。どおりで、他の話とはちょっと趣がちがう。

   

牡丹の花
[2010.08.29 記]

金蛇水神社今時、なぜか牡丹の花を思い出した。

いつものようにぶらぶらと一番町を歩いて青葉通りを東へ曲がりあゆみ書房に入った。文庫本のコーナーに「”名作日本の怪談 四谷怪談 牡丹灯籠 皿屋敷 乳房榎” 志村有弘編」という本を見つけた。

怪談物なんて昔、四世鶴屋南北の戯曲(確か・・岩波文庫だったかな・・)を読んだことがあるくらいで、いつもは興味がわかない。今回は、どんなところで牡丹の花が出てくるのか気になって買ってみることにした。しかし、結局、牡丹の花は出てこなかった。出てくるのはあくまでも「牡丹灯籠」、すなわち、牡丹と芍薬の絵が描かれた提灯である。

この文庫本の話は、三遊亭円朝の「怪談牡丹灯籠」を下敷きにした散文である。この話は不思議な構成で、我々がよく知っているお露と新三郎(新之丞)の話ははじめの半分くらいで終わってしまい、後は全く別の話に展開してゆく。ちょっと肩すかしをくった感じだ。

と思いながら、次の日、昼食をとって一番町を北へ向かって歩いていると、祭りの行列の一団がやってくる。金蛇水神社の幟を押し立てて、男御輿、女御輿、子ども御輿、天狗まで歩いている。金蛇水神社・・牡丹の花だ。

  

和霊神社・えびす神社
[2010.08.22 記]

えびす神社一番町フォーラスの前に差し掛かってふと思いついた。確か、この屋上に和霊神社ってのがあるはずだ。和霊神社に宿る神様にはお参りしたことがない。この際、お目にかかっておくのもいいかと思い、フォーラスに足を踏み入れた。めったに入るところではない。エスカレータで上昇しながら周りを見ていると若者ばかり。中年以上の者がいると間違った場所に迷い込んだような感じだ。

二十歳前後かと思われるカップルが手をつないでいる。真夏だというのに・・暑苦しいこと・・。

最上階のフロアまで上がり、屋上への出口を捜した。しかし、見つからない。ようやく、さらに上へ上がる階段を見つけたが、がっかりした。というのは、チェーンが張られていて、「関係者以外これより上は立入禁止」となっている。御丁寧に「無断で立入ば警報がなります。」ってなことが書いてある。

街の神様に挨拶するのにものものしい警戒を突破しなければできないなんて・・。多分、一般人が屋上へ上がるのは危険だとの考えたのかも知れない。・・余計なお世話だってえの。神様に挨拶して危険にあったら本人の責任だ。まさに自己責任だろう。派遣切りにあった労働者を自己責任と切り捨てるのとはわけが違う。

とは言え、関係者以外でしかない私は、和霊神社の神様への挨拶はあきらめた。・・しかし、何か思い立った気持ちが落ち着かない・・。そう言えば、藤崎の屋上も随分行ってない。昔、子どもの遊園地みたいな施設と並んでいた社を見て、変な所にある神社だと思っていた。これが、えびす神社だ。えびす神社へ行ってみることにした。

ところが、藤崎の屋上へ出ようと思ったが最上階は日本全国の物産展をやっていて、たいそうな人の混みようであった。どこらから屋上へ出ればいいのかがわからない。よもや、ここも、屋上への侵入を許さないのではないだろうな・・。

ようやく、探り当てた階段を上ると、案の定、「この先、関係者以外立入禁止」になっていた。「藤崎、おまえもか・・。」と怒りそうになったが、そこへ白衣をきた40才前後かと思われる男性が現れ「何か・・」と怪訝そうな顔をして寄ってきた。そこで、私は「屋上に、えびす神社があるはずですが・・」と聞くと、別の階段だという。そして、「私が案内します。」と先に立って歩きはじめた。

ついてゆくと反対側だった。物産展の人だかりに階段は隠れていた。私は男性にお礼を言った。この忙しい時に、えびすさんなんか捜して歩く人間のためにわざわざ案内してくれるなんて・・。

屋上は、ビアガーデンになっている。ひるで誰もいず、がらーんとしていた。えびすさんの賽銭箱には、10円玉だの100円玉だのが散らばっている。お参りをする人がいるのだ。

日本の神様は嫉妬深くはないはずだ。よその神様に手を合わせたことがある者が思い立って立ち寄るのを拒まないで欲しい。


    

狂王ルートウィヒ
[2010.08.08 記]

仙台七夕急ぐ仕事ほど十分に準備をして頭を整理した上で始めないと遠回りになってしまう。分かり切ったことだ。しかし、ついつい、気がせいてまだ準備が整わないうちに着手してしまう。そして、いつもと同じ後悔に襲われる。結局、途中で引っかかり、書き直すはめになって、かえって何倍もの時間がかかる。

ようやく、骨格を作り上げた。今日は8月8日。七夕の最終日。やけに暑い夏だ。いつもなら、七夕も無視して事務所に詰めているが、今日はやけくそ気味に一番町へでかけてみた。人出は7日を過ぎてピークを越したのかたいしたことはなかった。

それでも、吹き流しを掻き分け、人を掻き分けて歩かなければならない。人混みに紛れると、やはり「祭り」と名のつくものはいい。人、悩みや心配事はあるに決まっているが、行く人行く人、皆幸せそうに笑っている。とりあえず、ひととき悩みは中断。この瞬間くらい忘れたっていいじゃないか。「人生、須く、歓をを尽くすべし。」

すっかり遅くなってしまった昼食をとり、腹ごなしと思って歩くことにした。駅方面へ向かう。「ブック・オフ」があるはずのビルへ入ると「さくら野デパート7階へ引っ越しました。」と案内されていた。たまに、ぶらつくのはいいことだ。街の変化に気が付く。

さくら野デパートなんて、入ったことがない。遠い昔、丸光デパートだった頃、することもなくおもちゃ売り場をぶらついていた。その他、ちょっと思い出もある。ビブレの時代はほとんど入っていない。まあ、それはともかく、行ってみることにした。

衝動買いである。「狂王ルートウィヒ」という文庫本を見つけた。105円均一の本。中央文庫で、もともと定価620円した本だ。「もうけものもうけもの」とさっそく手にしてレジへいった。すると、「本日、2割引です。」ということで、結局84円だった。・・得したなあ・・。だって、620円出さないと買えないはずの本が84円だよ。私にとって使用価値は同じだ。ワーグナーの不穏は音楽を背景にした19世紀末バイエルンの狂気を味わってみよう。


海鞘(ほや)と竹の子
[2010.07.24 記]

魚屋の前を通りかかると、発泡スチロールの箱に海鞘(ほや)がいくつか転がっている。

四十数年前、私は宮城県に来て初めてほやなるものを食べた。ほやに病みつきになったのは女川で採り立てのほやをごちそうになって以来である。私は、北海道にいた頃は、ほやを食べたことはもちろん見たこともなかった。後で聞いたところによると北海道でもほやはとれるし食べる人もいたらしいが、まず、ほとんどは食べないだろう。

ほやを見ると思い出すことがある。

仙台へ来てほやを食べ始めた頃、既に身を剥いてつくられたほやしか見たことがなかった。ある時、長町の通りを歩いていると魚屋があり、店先にころっとした茶色の木の根の切り株みたいなものが桶にに入れられていた。

鳥で言えば、羽を剥がれて裸にされたような風情であった。私には初めて見るもので、その羽を剥いたような様が、皮を剥いだ裸の「竹の子」に見えたのだ。・・このようにして私は長い間、海鞘(ほや)の殻を竹の子だと思っていた。それにしても、様子のおかしい竹の子だとは思っていたが・・。

その内に、あれが、身を剥かない前のほやだとわかった。・・そりゃそうだよね。あんな竹の子あるわけないよな・・、後でわかってみれば、何ともあり得ないような錯誤であったが、あの奇怪な形態のものに、私には命名するための語彙として「竹の子」しか持ち合わせがなかったのだ。

ほやと冷酒・・たまらない。


函館の七夕
[2010.07.23 記]

思いがけずこのコラムを読んでくれた人から反応があった。函館の七夕について聞きたいというものである。前回、函館の七夕の子ども達の囃子詞を書かなかった。「じゃ、函館の子ども達は何て言っているの。」と聞きたくなるのは、もっともな話。

私が子供の頃に母から聞いた囃子詞はこうだ。「竹に、短冊、七夕祭り、おおいやいやよ、ろうそく一本ちょうだいな。」というものだ。

ところで、この囃子詞は果たして函館全域のものだったのだろうか、それとも函館の一地域のものだったのだろうか。しかも、母が子どもの頃の記憶を話してくれたわけだから大正末期ないし昭和の初め頃、すなわち戦前の話だ。それと、この囃子詞の妙に都会の下町っぽい調子が函館の日常の言葉と違う感じがしていた。頭韻まで踏んでいる囃子詞はずいぶん洗練されて居るではないか。函館全体で用いられている囃子詞ではないかも知れない

そこで、はたと思いついた。インターネットで調べて見りゃわかるじゃないか。今の世の中、ちょっとした疑問はたちどころに調べられる。私は、さっそく「函館・七夕」で検索してみた。すると、出てきた。あるサイトによると、驚いたことに、函館(全域と考えていいようだ)では今でもこの囃子詞のようであるが、私が母から聞いて記憶していたのとちょっと違った。「竹に、短冊、七夕祭り、おおいはいやよ、ろうそく一本ちょうだいな。」または「・・おおいにいわおう、・・」だというのだ。どれが正しいのだろう・・。

母が間違えて覚えていて、ちょっと違えて、我々に教えたのか、私が聞き違えて覚えていたのか・・今となっては、確かめる術はない。母は2年前にあの世へいってしまった。

函館には、ずいぶん、帰っていない。


幌泉、南部家・大和の七夕
[2010.07.11 記]

7月7日、七夕である。もちろん仙台ではない。仙台の七夕は旧暦でやるから8月7日だ。言うまでもない。ところで、北海道では多分多くの町は仙台と同じなはずで8月7日に行っていると思う。各町の七夕を確認した訳ではないので自信はないが・・。

幼い頃住んでいた北海道の日高では幌泉も様似も静内も七夕は8月7日であったと思う。中学生の時期を過ごした小樽でも8月7日だったのではないだろうか。

あくまでも私の主観的な感想だが、明治の時期に内地(本州)から多くの日本人が北海道に渡り開墾して北海道に住み着いた。内地のどこから渡ったかによって、内地のどこの文化が持ち込まれたかが決まる。

しかし、北海道の言葉で考えると、やはり、東北から渡った人たちが多いのではないだろうか。北海道の方言は東北の言葉を基底にして成り立っているように感じている。もちろん、言語学者がなんと言っているかは知らない。東北から渡った人たちは旧暦で七夕を祝い、だから北海道では8月7日に七夕を祝う町が多いのではないだろうか。

とは言え、やはり地域で相当に文化の違いもある。私は高校生の時に生まれた土地である函館に戻った。小さいときの記憶は全くない。函館で高校生活を送ることになって気づいた函館の他の地との違いの一つに七夕がある。函館では7月7日にやっていた。

私自身は既に高校生になっていたからあらためて七夕を祝う行事に参加したことはない。だから、その祝い方は母が語ってくれたものを思い出すだけであるが、私が幼年時代を過ごした幌泉の子ども達の荒々しい祝い方と比べるとずいぶん上品なものだったようだ。

幌泉の南部家や大和という地域では子ども達が猫柳の枝を束ねて集落の家々の門を訪れ、地面を叩いて、「出せ出せ出せよ、ろうそく出せよ、出さねばかっちゃくど。」と囃し立てて回るのである。今もそんな仕方かどうかわからない。北海道の田舎だって今は多分ずいぶんとソフィステイケートされちゃっただろうから・・。


春日神社と春日町
[2010.06.6 記]

春日神社材木町通りがすっかり気に入ってしまった。昨日も一通り予定のことをこなすとふらりと足を向けた。先日、春日町の辺りを歩くと春日神社のお祭りが近いことが予告の張り札でわかった。しかし、その時は、特に何も思わず通り過ぎた。

今日は、春日町に入ると途中の道々に祭礼の旗が立っている。そして、材木町通りに交叉する道を右手に見ると、お祭りの賑わいを見つけた。あれ、こんな所に神社があるのか。今まで、全く、意識したことのない通りである。

そして、思った。「春日町って、春日神社に由来する町名だろうか。それとも、春日町にあるから春日神社っていうのだろうか。」・・いずれにしても、仙台に住み始めて四十数年、今の今まで、春日町と春日神社の名を結びつけて考えることは一度もなかった。何という迂闊な・・。春日町の人達に申し訳ない。

祭礼に出店が出て人が集まりつつある。出店の売り子は若い人が多く、眉ににそりが入れられていたりする。・・祭りだな・・。つい、うきうきしてしまう。

材木町通りから東へ入り、春日神社にお参りし、そのまま晩翠通りへ抜けた。すると、そこは、立替工事中の仙台法務局の南だった。ああ、この道は、ここに出てくるのか・・。今日の散歩は見過ごしていた道の発見であった。


「理科で歴史をよみなおす
[2010.05.29 記]

「『理科』で歴史を読みなおす」という本が書店に平積みになっている。伊達宗行さんが書いた「ちくま新書」で、この4月に第1刷が出たばかり。伊達宗行さん(以下、「伊達先生」といいます。)はもちろん伊達政宗ゆかりの人で、大阪大学名誉教授、大学では物性物理学とかを研究していたそうだ。私には、皆目、理解のできない分野をやっていた方である。

伊達先生から、最近、この新著を頂いた。早速、拝読したが、まず、専門分野とは違う領域であるいはずなのに、その博識振りには驚かされた。歴史というと、どちらかというと文化系と思われる事実郡で成り立っているが、実は物質過程の一環である人間の生活史は「物」との交渉の歴史であり、理科系事実郡に基礎付けられているという、当たり前のことに気づかされた。

「目から鱗」という感じだ。

読後、思い出せることだけを取り上げても、金色に輝く奈良文化の象徴とも言うべき「奈良の大仏」の建設現場は、ヒ素や水銀で、中毒患者を多数出したはずの労災・公害現場だったとか、鎌倉の大仏は中国から輸入された銅銭を鋳つぶして造ったとか・・。

日本語の五十音の表はサンスクリットの整理の仕方と同じだとか・・。

ともかく、太古から近代まで、世界史的観点から日本史的観点までとその守備範囲はえらく広く、人間の歴史を俯瞰するものになっている。もちろん、文化系の者には少し頑張って読まなければならないところもあるが、あくまでも素人にわかりやすく書いてくれている。

面白い。是非、皆さんに一読をお勧めします。


こしゃくなチビ犬
[2010.05.23 記]

チビ犬材木町通りを北へ向けて歩いていると理髪店の前の細い舗道にチビ犬が寝そべっていた。

店番をしているつもりらしい。カメラを向けるとポーズをとっている。私が、見下ろして近づいて行くと、やにはに立ち上がって短い足をこまめに動かし吠えだした。

人をなんと思ったか・・。結構、やかましい。

こしゃくなチビ犬だ。


材木町通り
[2010.05.23 記]

歩くということはいいことだ。運動不足を感じ、少し時間をかけて歩こうと思う。材木町通りを北四番丁まで往復歩けば相当な距離である。いつもならば、この距離は自転車にしてしまう。

運動不足の解消と思って歩き始めると、たちまちに効果が現れ始めた。なんと言っても、まず、胃腸が活動を始める。そして、胃や腸の中で逡巡していたと思われるもの達がスムーズに進行を始めるのがわかる。昼食の後で胃の辺りにあったわだかまりは解けてゆく。

以前、胃ガンを切った先輩が言っていた。医者から歩くように指示されているとのこと。手術で胃腸が弱っているので歩きなさいと言われたということだ。仙台駅から事務所までたいした距離でもないが、ついつい時間を惜しんでタクシーに乗ってしまうという悪習に多くの弁護士は陥っている。しかし、その先輩弁護士は徒歩だった。

街を知るには自転車でも途中を躍ばしすぎる。本材木町通り、北材木町通りと北上してゆくと自転車では見過ごしているものが随分あることに気づく。この通りには三軒も鮮魚屋があったのだ。最近、街の中で鮮魚屋など見かけなくなった。おおかたの人はスーパーかコンビニで切り身を買っているだろう。今、鮮魚屋などに出くわすと、「そうだね。昔、魚屋って、こんな感じだったよね。」と、妙になつかしかった。

その上、この通りには豆腐屋まであったのだ。いや、いや・・・まだ仙台の真ん中にもこんな通りが残っていたなんて・・

この通りは、これから、時々歩いて報告することにする。


五月の欅並木
[2010.05.8 記]

欅並木今年の春は寒い日が続き桜の開花は遅れた。花冷えが続き桜は長持ちしたように思う。5月に入って晴れた日が続いている。気温もようやく上がり始めた。土曜日は健やかな一日だった。

青葉通りの欅並木は瞬く間に浅緑の葉を吹き出した。萌え出る生命が賑やかに街に彩りを添えている。

ゆっくりと息を吸い込んで青葉通りの舗道を歩く。散歩道のひととき浅緑の葉から降り注ぐ精気を浴びて滞留している疲れから蘇ろう。

昨日は、また、ニューヨーク発の市場の混乱が伝えられた。市場原理主義が人を疲弊させるが・・、どっこい、季節に息吹くさ・・。


恐怖、「ペルシャの市場にて」
[2010.04.18 記]

藤崎デパートの一階の化粧品売場を通り抜けようとすると、ケテルビーの「ペルシャの市場にて」が耳に入ってきた。・・大分のとあるデパートでの恐怖の体験が蘇った。私はその記憶から逃れるために急ぎ足で青葉通りへ出た。4月中旬に入ったというのに街は真冬のように冷え込んでいる・・。

10年ほど前のことだろうか。大分で日弁連の人権大会があった。私はこの大会に出席すべく大分に足を踏み入れた。初日、駅前当たりだろうか、デパートを見つけ、同行していた連れあいと、そのデパートの食堂で食事ををとることにした。何を食べたかは忘れてしまったが、食堂に入って、それぞれが注文をした・・か・・食券を買って注文の食事が出てくるのを待っていた・・。

食堂は5階辺りにあり、音楽が流されているのに気づいた。「ペルシャの市場にて」である。人によっては好みもあるようだが、私は、そのオリエンタルな感じは嫌いではない。何気なく聞いていた。・・すると、これが繰り返し流されていることに気づいた。

そのデパートでは、ちょうど、中東辺りの物産展が開かれていた。それに因んでの選曲であると思われて、なんとなく納得していた・・。しかし、何時までも曲は変わらず、エンドレス・テープになっている。私は、だんだん、耳に憑きはじめて苦痛になってきた。

連れ合いに、「いいかげん、この曲、やめてもらえないかな・・」と問いかけてみると、私ほどではないが、やはり、気にかかり始めていた様子・・。食事も終わって、「ちょっと、苦痛になってきた。ここ、出よう。」と、食堂を出て、階段で、下の階へ移った。

すると、「ペルシャの市場にて」はその階にも流されていた。・・ありゃ、ここでも聞こえる。私たちは、その曲から逃れるべく、さらに階を下ると、その階でも「ペルシャの市場にて」が流されている。・・いったい、どこまで、ついてくるのか。私たちは、さらに下の階へ下の階へと階段を下りたが、「ペルシャの市場にて」は追いすがってくる。ようするに、「ペルシャの市場にて」は全館に流されていたのだ。最後は、もう、恐怖に近いものを感じた。

急ぎ足でデパートの外へ出て、ようやく、私たちは耳鳴りのように脳に反響する「ペルシャの市場にて」から脱したのであった。

デパートで、「ペルシャの市場にて」は聞きたくない。


人はなんのために生きるか
[2010.04.18 記]

土曜日の午後、今は「三越」となった141ビル5階で開かれた「市民講座『親鸞に聞く』」を途中から聴講した。岩手県の真宗のお坊さんの話であった。着席して講師の方を見ると、ホワイト・ボードに「生 死」等の文字が書かれている。

「人間、誰も死を免れない。だからこそ、先人に受けたこの生を、一生懸命に生きなければならない。」・・おおよそ、そんな趣旨の話であったように思う。

という話をしながら、そのお坊さんは続けた。「・・人間なんのために生きるのか・・、しかし、車の運転しながらこんなこと考えないでくださいね・・。事故を起こしては困りますから。」

・・そりゃそうだよね。「人間なんのために生きるのか」を考えていて交通事故に遭って死んだんでは元も子もない。

このお坊さんは人を追いつめないところがいい。

この講座は、真宗大谷派(東本願寺)東北別院が主催で、ほぼ、一ヶ月に一度開かれている。以上の文責はあくまでも私にある。もし、お坊さんの話の趣旨を取り違えていたらごめんなさい。


五色沼の水の行方
[2010.03.21 記]

追廻住宅の辺りまでゆくとなるとそれなりの距離がある。だから、いつもは自転車で行く。しかし、今日は体が歩いて行けと言っている。徒歩でテクテク出かけた。大町交番の西側に重機が入って工事場になっているのに気づいた。近づいて工事現場の看板を確認してみると、「地下鉄工事」の「西公園工区」であった。青葉山へ上がる経路が地図に書き込まれている。ここに駅は顔を出すのか・・と思いながら、大橋を渡った。

追廻住宅の立ち退きが相当に進んだことは以前にも書いた記憶である。しかし、地区の中に入ってよく見ると、まだ、結構な軒数が残っている。住んでいる人間がそんな簡単に住処は変えられないか・・と思いながら通りをゆくと、道端の木々は遠目にはまだ冬枯れのままだが、よく見ると新芽を抱いているのがわかる。水仙も三寸ほどに伸びて日の暖かくなるのを待っているようだ。

歩いていると、自転車では見落としてしまうものに気づく。新幹線が走り始めて、我々は、在来線の一つ一つの駅の名を覚えられなくなった。自転車の速度でさえ見落とすものがあるのだから、新幹線では当然のことだ。

さらに歩いて、青葉山公園に入った。いつも、誰もいない公園。手入れも悪く荒れた感じがする。林の高い梢を仰ぎながら、歩を進めると東屋に行き着く。東屋の傍を小川が流れている。流れは、そのまま、広瀬川に注いでいるようだ。

東屋を後にして南へ入ると、右手に伐木を積み上げてあるのが見える。昔、小さい頃、北海道の幌泉に住んでいた。まだ、薪ストーブであったが、冬の初めには、家の前に買ったばかりの薪が積み上げられた。そんな光景を思い出しながら、その方向に入ってみると猫が一匹寒々とした枯れ草の中にうずくまっている。猫は、私には全く興味を示さず、そっぽを向いていた。何か寂しい。・・愛想のない猫だ・・。

林を抜けると「青葉山公園テニス・コート」のクラブハウスの前を通る道路に出た。私は、この道を戻ることにした。先ほどの東屋の傍を流れる小川は、道路の側溝の水が公園に取り込まれて小川になっていることがわかった。・・じゃあ、この側溝はどこから来てるんだ、と、その側溝の上流を追ってゆくと、青葉城の堀跡の長沼から水が流れ出している。そして、仙台国際センター前の道路まで出た。水は、さらに、五色沼から流れ落ちていた。

五色沼は、日本人が、初めて、フィギアスケートで遊んだ場所だ。仙台からフィギアスケートの選手が多く出るのも縁のあることか。


大雪・・
[2010.03.10 記]

もうすぐ春なはずだ。3月も10日になれば、彼岸が近いと思う。そして、春が近いと思う、その気持ちに水を差すかのように大雪が降った。べちゃべちゃの水分の多い雪だ。革靴では中まで透ってしまうだろうとゴム靴にした。

大雪と言っても最近になく大雪というだけで、昔降った雪の量ほどではない。昔の雪と言えば、1981年(昭和56年)12月24日の大雪を思い出す。

当時、私は、弁護士成り立ての2年目だった。勤務していた事務所はクリスマス・イブが半ドンという珍しい事務所であった。昼で仕事を終えて帰宅しようと思ったが、すでに大量の雪がつもり、車道の車は難儀している状態であった。タクシーを待ったがついに乗れず一時間かけて自宅まで歩いた。革靴は濡れ雪に水浸し。

雪の重さに耐えかねて電線が切れて停電。ろうそくの火で夜をすごした記憶がある。

あれから30年も経っているのか・・。


吹雪の幌泉
[2010.02.6 記]

雪だ。仙台では久しぶりの雪だ。温暖化のせいか、都市化のせいか、仙台はずいぶん雪が降らなくなった。雪が降ると北海道を思い出す。小樽の深い雪もさることながら、私には、とりわけ日高の、そして、幌泉の雪が瞼の裏に焼き付いて離れない。

生まれは函館だが、私の記憶は、北海道の日高山脈が太平洋に落ち込む襟裳岬のやや手前に位置した「幌泉」という村から始まる。日高本線は様似という町までで、その先はバスに乗り換えてようやくたくたどり着く漁村であった。

冬は薪ストーブにかじりついて、外の吹雪の悲鳴を聞いていた記憶である。寒かった。太平洋側だから雪の量自体はたいしたことはなかったはずだが、幼かった時分の記憶、雪が胸の辺りまで積もり、しかも、前夜の嵐に吹き固められて、子供が歩いても雪に沈まないことなどもあった。

仙台の住人となって久しく経ってから、地図を見ていて驚いた。地図から「幌泉」の地名が消えていた。「幌泉」があるはずの場所が「えりも」と表示されている。町村合併で消されてしまったようだ。

小学校の帰り道、海は荒れて波が岬をめぐる道路に打ち寄せる。その波が引く合間をランドセルを背負った子ども達で駆け抜けたことを思い出す。

ずいぶん、昔のことだ。波をかぶった道路は、今はないだろう。多分、立派に舗装された道路になっているはずだ。


肥満のパピヨン
[2010.01.28 記]

南町通りの歩道を歩いていると、主人の綱につながれて歩く3匹の犬に出会った。パピヨンである。2匹は我先に行こうとするが、他の1匹は老犬らしい。どこか心許ない歩き方だ。しかも、長年の飽食と運動不足のせいか、脚はあくまでも細いのに胴回りばかりがパンパンに張った肥満の犬。肥満のパピヨンだ。

これでは、とても空は飛べそうもない。「気の毒に・・。」と思って通り過ぎた。

ところで、その何日か後。検察庁の前で信号待ちをしていた。目に入ったのが、やはり、主人に引かれて散歩をしているプードル。ひょこひょこと主人にまとわりついている。やはり肥満だった。

人も犬も生活習慣病の世の中だ。


こけた昼下がり
[2010.01.17 記]

今日は、ちょっと、こけた昼下がりとでも言うべきか。

混み合う時間をわざわざ避けて、一時過ぎに食事に出かけたのに、壱弐参(いろは)横丁の「すすきの」でラーメンを食べようとしたところ、私の一足先に一組の男女がドアを開けて入ってしまった。「ダメだ。」と踵を返す。

「仕様がないな・・。じゃ・・ソバか・・。」と一番町を北上すると、青葉通りの手前で誰かに声を掛けられた。気づかずに通り過ぎるところであったが、目をやると、A弁護士の笑顔が飛び込んできた。「ソバを食べにいくの・・。」と言い当てられて、こけてしまった。A弁護士は連れ合いさんと一緒。奥さんに挨拶をされて私も慌てて挨拶を返した。以前に会ったことがあったのか、なかったのか記憶が定かでない。

「なんてことだ。とろうとしている食事を言い当てられるなんて。・・ソバはやめにしよう。」一番町を歩いたが、かといって、ソバ以外に食べるものも思いつかず、「ひろせ庵」に入ると、そこも客がいっぱいで席がふさがっていた。結局、今日は「こわめし屋」。久しぶりの「こわめし屋」だ。

「あゆみ書房」で本を立ち読み。杉浦日向子の「うつくしく やさしく おろかなり−私の惚れた『江戸』」を手に取ったり、辛淑玉の「怒らない人」を手に取ったりしたが、今ひとつ、「よし買おう。」という気にならず、そこも出てしまった。

どうも、今日は、心の中を言い当てられたのが良くなかった。


玉こんにゃく
[2010.01.02 記]

今年こそ、時間を大切にしよう。一日を計画的に過ごすようにしよう。決意も新たに、いつもなら、元旦の朝の食事の後にテレビの前で一休みしてから、やおら立ち上がって大崎八幡へ出かけるのだが、直ぐに身支度を調えて出かけた。

八幡町の通りに入るや行き交う参拝客の邪魔にならないように自転車を降りて押した。階段を登り切ると大きな門松が立てられている。観察力が散漫なせいか、例年、こんな門松があったかどうかの記憶がない。「日本一の大門松」という看板が立てられている。「…本当かよ。」と思いながら通り過ぎた。「…いつ、どうやって比べたんだ。」大崎八幡には、時々、謎かけをされる。

お賽銭を上げ、間違えて合掌しないように、「拍手、拍手…」と自分に言い聞かせてお参りは済ませた。

あふれるほどではないが、たくさんの善男善女がお守りを買い求めている。帰りの参道、両側に並んだ出店に目をやりながら賑わいの中を行くと、何軒か置きに「玉こんにゃく」を売る店がある。人がくったくもない笑顔で櫛に刺されたこんにゃくを食べているのを見ると食欲が移ってきた。

一人での買い食いは気が引けたが、「…階段を下りる前に、もう一軒玉こんにゃく屋があったら買おう…。」と思っていると、最後の玉こんにゃく屋に出くわした。…大崎八幡で玉こんにゃくを買うのは初めてだ。

今年は新しいことが始まるかも知れない。



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